(概要)
山中城は、静岡県三島市に所在する戦国時代の山城で、箱根山西麓、標高約580メートルの丘陵地に築かれた城郭である。現在は国の史跡に指定されており、戦国末期の築城技術を今に伝える貴重な遺構として高く評価されている。
山中城を築いたのは、小田原を本拠とした後北条氏で、天文年間(16世紀中頃)から永禄年間にかけて整備されたと考えられている。城主としては松田康長や松田康郷など、後北条氏の重臣が配置され、西国から箱根を越えて関東へ侵入する敵勢を防ぐための重要な防衛拠点であった。特に東海道と箱根越えを押さえる立地は戦略的価値が高く、小田原城を守る「西の盾」としての役割を担っていた。
山中城の最大の特徴は、その縄張りにある。石垣や天守を持つ近世城郭とは異なり、山中城は石を使わない土を主体とした中世山城であるが、障子堀(しょうじぼり)や畝堀(うねぼり)と呼ばれる独特な堀構造を多用している点で極めて特異である。障子堀とは、堀の底に縦横に土塁を張り巡らせ、障子の桟のような形状を作ったもので、敵兵の侵入や移動を著しく困難にする工夫であった。畝堀も同様に、堀底に畝状の起伏を設けて進軍を妨害するもので、山中城ではこれらが大規模かつ良好な状態で残されている。
城内は、西櫓、元西櫓、天守櫓、本丸、二の丸、三の丸、北の丸、西の丸などから構成され、それぞれが空堀や土塁によって厳重に区画されている。特に三の丸堀は規模が大きく、防御の要所であったことがうかがえる。これらの遺構から、後北条氏が豊臣秀吉の侵攻を強く意識し、短期間で集中的に防御力を高めた城であったことが読み取れる。
しかし、山中城は天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に攻撃を受け、わずか半日ほどで落城したと伝えられている。豊臣方は数万の大軍を動員し、最新の鉄砲戦術を駆使して攻撃を行ったため、兵力で大きく劣る守備側は抗しきれなかった。城主の松田康長は討死し、山中城はその役割を終えることとなった。この戦いは、後北条氏滅亡への重要な一過程として日本史上に位置づけられている。小田原と関わりのある下田の下田城と時を同じに落城している。
江戸時代以降、山中城は廃城となり、長く自然に埋もれていたが、近年の発掘調査と整備によってその価値が再評価された。現在は「山中城跡公園」として整備され、障子堀や土塁、曲輪跡を間近に見学できるほか、富士山や駿河湾を望む景観も楽しめる。山中城は、戦国時代の築城思想と防衛戦略を具体的に理解できる遺構として、歴史学・城郭研究の両面から重要な存在であり、多くの来訪者に戦国の緊張感と後北条氏の遺産を伝え続けている。
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