(概要)
下田城は、静岡県下田市の下田湾を望む丘陵地に築かれた山城で、戦国時代末期に北条氏によって築かれたとされている。伊豆半島南端の軍事的・海上交通の要衝として、戦略的に極めて重要な位置にあった。
下田城の築城は、戦国時代の名将・北条氏康の命によるものとされ、築城年は天文年間(1532年~1555年)と推定されている。当時、伊豆半島は北条氏の支配下にあり、駿河の今川氏や甲斐の武田氏、さらには遠江の徳川氏との間で勢力争いが繰り広げられていた。下田城は、伊豆南部の防衛拠点として、また海上からの侵攻に備えるための要塞として築かれた。
下田城は、典型的な山城の構造を持ち、自然の地形を巧みに利用して築かれていた。主郭(本丸)は標高約70mの鵜島山頂にあり、そこから複数の曲輪(くるわ)が段状に配置されていた。これらの曲輪は、土塁や堀切によって区切られ、敵の侵入を防ぐ構造となっていた。また、城の南側には海に面した断崖があり、天然の要害となっていた。北側には緩やかな斜面が広がっており、こちらからの攻撃に備えて複数の防御施設が設けられていたとされる。現在でも、土塁や空堀、石積みの遺構が一部残っており、当時の城の規模や構造をうかがい知ることができる。
天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条氏の支城であった下田城もその標的となった。秀吉は、伊豆・相模の諸城を次々と攻略し、下田城にも攻撃の手が伸びた。江尻に集結した長宗我部元親、脇坂安治等総勢1万人を超える豊臣方の軍勢が下田に押し寄せたとき、これを迎え撃つ清水上野介康英をはじめとする軍勢は600余名だったといわれています。下田城での篭城戦は50日にも及びますが、秀吉方軍の海上封鎖及び陸上での包囲作戦により、4月下旬には開城され城を出た。同じように、小田原防衛の備え三島の山中城も同時期に攻略されている。
この戦いの後、北条氏は滅亡し、下田城もその役割を終えることとなる。城は廃城となり、以後は再建されることなく、時代の流れ
とともにその姿を消していった。
時代が下って江戸時代末期、1854年にアメリカのマシュー・ペリー提督が黒船を率いて下田に来航した際、下田は日米和親条約によって開港されることとなった。このとき、下田城跡の一部はアメリカ領事館の用地として利用されたとされている。つまり、戦国時代の軍事拠点から、幕末の国際交流の舞台へと、下田の地は歴史の転換点にたびたび登場してくる。
現在、下田城跡は下田公園として整備されており、春にはツツジ、初夏には紫陽花、冬には椿が満開となる名所としても知られている。城跡には、曲輪や土塁、堀切などの遺構が残されており、訪れる人々に往時の面影を伝えている。また、展望台からは下田湾を一望でき、かつての城の戦略的な立地を実感することができる。

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