(概要)
城郭の面積東西四十間(約72m)、南北十五間(約27m)、南側と西側に土石を積み上げた長大な土居を築き四方に空堀をめぐらし、本郭址は今神社の敷地となっているが、北面に大手をとり、他の三面は険しい地形を守りとした山城。昔を偲ぶ巨石・抜穴址・馬場址等も残っている。
小田切氏の始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人、鎌倉時代に地頭となり小市に移駐、小市今里等に居館をかまえ、背面に小市城(吉窪山城)を築き戦乱に備えたものと思われる
戦国時代に小田切駿河守幸長は始め村上義清に属し、更に村上氏と共に上杉方に加わった。弘治三年(1557年)葛山城を守った頃は、春日、朝日、長嶺、久保寺、平林、布施、横山等組下七騎衆を率いた武将だったが、武田方の火炎攻めにあい越軍の援軍到着寸前に落城、幸長は戦死した。
永緑四年の川中島合戦はこれより四年後の事であるが、戦後武田方の治世になってから幸長の一子民部少輔は、一時武田方から400貫の知行を受けた事もあったが、衰微し、流転を重ね末裔は高井郡に移ったと伝える。(案内板転記)
(アクセス&探索コ-ス)
国道19号の両郡橋長野市側から市道を吉窪部落に向かう。2.5Km程、じぐざぐの急坂を進むと林道入口の道標にぶつかる。往きは懸崖上の西明寺経由で、帰りは林道で戻るといいだろう。
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