屋代城

(概要)
 屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城である。尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や竪堀で遮断されているが、土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の腰曲輪(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
 この屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明の乱のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点孤落城・葛尾城が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城になったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と次つぎに主人を替えた典型的な戦国武将といえる。
 こうした地方武将の居城であった屋代城は、戦国末期の改造の手が加えられてはいない。また、屋代城の特徴である雛壇状の腰曲輪は、信濃の城郭の一つの基準型であり、重要な山城である。(案内板転記)
(アクセス&散策コ-ス)
 車なら、更埴ICから5分の森将軍塚古墳館に駐車するのが良い。鉄道なら、しなの鉄道線屋代駅からとなる。主な登り口は、有明霊園、長福寺、成田山不動尊がある。車なら成田山不動尊の往復、鉄道なら有明霊園の往復となる。森将軍塚古墳を見学に加えるなら、森将軍塚古墳館⇨森将軍塚古墳⇨有明将軍塚古墳⇨東山神社⇨有明霊園⇨屋代城跡⇨成田山不動尊⇨森将軍塚古墳館がお薦めです。鉄道なら、バスで森将軍塚古墳館に行き、本コ-スを辿ることになる。 Map


有明霊園側入口
主郭跡
電波塔がある。東西約25m、南北約34mのほぼ長方形の主郭跡で、縁部に石積みがある。
二の郭跡から主郭跡方向
主郭跡との間に低い段差があり、二の郭跡は東西約34m、南北約20mある。
堀切
この時期、雑草が繁茂して堀切・竪堀は写真で見分けがつかないので、堀切表示がある写真を添付した。
矢代神社
成田山不動尊側入口

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