砥石城、米山城

(概要)
 上田・小県地方には、たくさんの山城跡がありますが、砥石城跡のように戦国時代4回も対決が行われた城は、ほかにはみあたりません。また、砥石城は、真田氏の発展にとっても、きわめて重要な意味をもった山城です。
 天文十九年(1550)甲斐〔かい〕(山梨県)の武田信玄が、村上義清(坂城の葛尾〔かつらお〕城主)の守る砥石城を、大軍をもって一ヶ月余攻めましたが、堅固な山城のため攻略できずに、かえって敗退しました。その翌年武田氏配下の真田幸隆が、得意の戦略によって、砥石城を乗っ取ってしまいました。
 ついで天正十三年(1585)の第一次上田合戦の際、上田城の背後〔はいご〕をおさえるだいじな砥石城には、昌幸の長男信幸(之)が守りを固めていました。さらに慶長五年(1600)第二次上田合戦の時、昌幸の二男信繁(幸村)がたてこもりましたが、後に徳川に味方した兄信幸が入城することになりました。このように上田盆地の北半分のおさえであった砥石城は村上・武田.真田・徳川らの争いの場になったのです。(上田市文化財マップ抜粋)
 この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突き出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・南西に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。
(本城)
 砥石城全域で最も広大で、最上部の本郭から南へ二の郭・三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭・三日月形郭・帯部等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷間で、これを登る両側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)と見られている。
(桝形城)
 北方最高所標高800mにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に4平方mの桝形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が二つある。
(砥石城)
 本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅九mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平方形郭で、周囲の展望は実によい。
 砥石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。(砥石城跡案内板転記)
(米山城)
 米山城は、砥石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれている。白米を馬の背に流して水が余るほどあることを敵にみせかけたという白米城伝説も残されている。(米山城跡案内板転記)
(アクセス&探索コ-ス)
 上信越自動車道上田菅平ICから国道144号を左折して、伊勢山信号を西進すると約400mのところに駐車場がある。
 その先100mのところに整備された遊歩道があり、櫓門が目印となる。道なりに進むと分岐に突き当り、左に行くと米山城跡、右に行くと砥石城跡に向かう。まず米山城跡に行って、砥石城跡に行くのが良いだろう。砥石城跡まではかなり急坂の階段が続く。砥石城跡、本城跡、桝形城跡を順次見学して引返すことになる。帰りは陽泰寺側に下るのも、変化があって楽しめる。 Map


砥石城、米山城入口
櫓門
米山城跡
本城跡
桝形城跡
本丸跡

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