(概要)
周山城跡は黒尾山の標高509mの山麓にあり、比高は約230mあります。周山城は東の城と西の城に分かれ、八方向の支尾根に遺構が点在する。南北700m、東西1,300mに及ぶ大規模城郭だった。城郭は大規模な石垣と土盛りで防備された強固な城塞だった。
二の丸から登り石垣を経て、枡形虎口と呼ばれる織豊城郭の特徴的な出入り口を通って本丸に達する。虎口には礎石があり城門があったことが推測される。城は本丸を頂点に延びる尾根筋にさらに曲輪を展開している。
周山城は、築城年は不明ですが、明智光秀の築城と伝わります。天正3(1575)年から始まる光秀の丹波攻略は、八上城と氷上城に勢力をもった波多野氏、赤井氏を攻略することが目的でしたが、京北周辺に勢力をもった宇津氏や亀岡を拠点とする内藤氏をまず攻略することが必須でした。京から丹波に抜ける交通の要衝である京北を押さえることが丹波攻略に必要だったと思われる。光秀の丹波攻略は一進一退だったが、天正7年、光秀、羽柴秀長、丹羽長秀らが総攻撃をかけ、丹波平定をなした。光秀に丹波1国が与えられたのは天正8年、その2年後の天正10年に本能寺の変により信長を討った光秀は、同年羽柴秀吉により討ち果たされます。この城もその数年後廃城になります。