古山城

(概要)
 本地域は、長野県最古の古文書である「天養文書(1145)」に初見される、最勝寺領小川庄に属する。
 古山城は純然たる山城で、標高860mの山頂にあり、本丸、旧本丸、本郭、曲輪、空掘、詰城などの形跡を残しているが、現在の天神社があるところが、最初の本城といわれ、城の守護の社がそのまま残存したものと推定される。北東付近は、今より二百年ほど前に、南東付近は弘化の地震で抜け崩れ、地形の旧態は見ることができない。
 城主は小川左衛門貞綱で、室町時代、尾張国小川苅谷城主(現愛知県苅谷市)であったが、足利義満によって南北朝が統一されると、南朝に属していた貞綱は、無実の罪によって貶せられ(官位を下げて遠方に追いやる)信濃の山中に追放された。
 元中九年(1392)古山城(当時は布留山城と称した)を築き城主となり、貞綱、綱義、貞宗と三代七十八年間にわたりこの地方を治め、かなりの勢力を持ったと推定される。
 しかし、当時信濃で大勢力を誇っていた村上顕国の命に従わなかったので、顕国が更科郡牧ノ島城主香坂安房守に定宗追討を命じ、安房守は猶子大日方小五郎長利(後に長政)とともに古山城を攻めてこれを破った。顕国は戦功を称え、小川郷を長政に与えた。
 小川貞宗は、かつての領地、尾張の小川苅谷に復帰し、罪を許され、姓を水野と改め、徳川に従い水野忠政の時、大名になったという。
 時代は下って、長政の後継者である直忠には、直経、直武、直長、直龍、直親の五人の子供があったが、この頃、武田軍の信濃侵攻が始まり、大日方氏にもその手が伸びてきたのである。
 大日方一族は武田軍に対応する重大な岐路を迎え、五人兄弟の評議は上杉方と武田方のいづれに組するかで意見対立となり、武田抗戦を主張する長男金吾介直経を説得することができず、ついに謀計をもって亡き者にしたという。
 後年、直経の霊を弔うため、城跡に金吾様と称する祠が建立されている。
 なお、貞宗攻略の年次については応仁二年(1468)、永正二年(1505)、天文五年(1536)の諸説があり、研究の課題となっている。(案内板転記)
(アクセス&探索コ-ス)
 県道31号沿いにある「小川の庄山菜村加工工房」を大町方向へ250m程行ったところに法蔵寺と古山城跡の道標とお堂がある。そこを入り、道は解り難いが3Km程行くと、古山神社と法蔵寺の分岐に突き当る。そこに8基の石塔と古山城跡の案内板がある。その付近に駐車して、古山神社に通じる階段を目当てに50m程歩く。階段から道なりに古山神社経由で城跡まで迷うことはない。古山神社の先に法蔵寺からの道があるが狭そうである。県道31号の落合バス停付近から法蔵寺経由で行く道もあり、この方が解り易いかも知れない。 Map


登り口
古山神社天満宮
本丸切岸
本丸
標高803mにあり、16mの円形。
二重堀切
二の丸
腰曲輪
法蔵寺の猫の石像
法蔵寺
猫寺として有名です。

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