(概要)
荒砥城は、当地一帯を治めていた地方豪族“村上氏”の支族にあたる“山田氏”により、大永4年(1524)に築城されたと伝えられています。冠着山から千曲川へ向かって伸びる舌状尾根の突端部にあり、戦略上重要な位置に築かれています。
城の形は、郭をいくつも連ねて作られる『連郭式山城』という、当時一般的な形式で築かれています。また荒砥城のほか、荒砥小城(あらとしょうじょう)や若宮入山城(わかみやいりやまじょう)といった荒砥城に付属する城や、のろし台と考えられる證城(しょうじょう)が同じ尾根上に連続して築かれています。
甲斐の武田晴信(後の信玄)は、領地の拡大などを目的に信濃への侵略を開始し、まず佐久地方の城を次々と落城させ、さらに諏訪地方にまで攻め込んでいきます。このころ、上田地方や更級・埴科地方などを領地としていた村上義清は、北上してくる武田軍と対峙し、上田原の合戦や戸石城の戦いで武田軍を退けます。
戦国随一と謳われた武田軍を2度も撃退するという戦果を挙げますが、天文22年(1553)、ついに居城である葛尾城を攻められ、村上義清は城に火をかけ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へと敗走します。領地奪還を目指す村上義清に長尾景虎は加勢し、武田軍のさらなる北上を阻止するため軍を信濃へ進めます。これが世にいう『川中島合戦』の始まりとなるのです。
川中島合戦は、天文22年(1553)から実に5回、12年もの長きにわたり戦いを繰り広げます。この戦いの中で、荒砥城は、武田軍の城となったり上杉軍が支配したりと、目まぐるしい奪い合いの渦中にありました。 (千曲市HP転記)
(アクセス)
上信越自動車道坂城ICより約20分、長野自動車道更埴ICより約30分、姨捨SAスマ-トICより約20分(松本方面からのみ)で戸倉上山田温泉に行く。そこから県道498号城山信号から聖湖方向へ1.2km程上ったところ。なお、荒砥城跡は入場料300円必要です。
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