竹田城

(概要)
 竹田城は、大分県竹田市に位置する歴史的な城で、戦国時代に築かれました。城は大友宗麟によって築かれ、その後豊臣秀吉、毛利輝元、立花道雪など歴代の城主によって築城された要素が加えられ、現在もその一部が残されています。
 竹田城は、戦国時代に大友宗麟によって築かれました。宗麟は豊後国の戦国大名で、その領国を安定させるために城を築くことで戦略的地域の拠点としました。城の位置は、現在の大分県竹田市にあり、筑後川の支流である五木川と宮地川に挟まれた山上に建てられています。
 竹田城は、その地勢を利用して築かれ、主に本丸、二の丸、三の丸から構成されています。城内には石垣や堀、土塁が配置され、城郭全体が要害を成しています。本丸には天守が建てられ、城の中心的存在となっています。また、城郭内には多くの櫓や門が建てられ、城下町との一体感を形成しています。
 豊後の戦国大名である大友宗麟は、竹田城を築くことでその勢力を拡大し、領国の安定を図りました。しかし、天正10年(1582年)の宗麟の死後、城はその後継者たちの争いや豊臣秀吉の九州平定によって多くの戦乱を経験します。竹田城は織田信長や豊臣秀吉の手に渡り、文禄4年(1595年)には徳川家康の手によって豊臣政権下での大友氏が改易され、豊後が宇都宮氏に与えられます。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、竹田城は毛利輝元の手によって一時的に回復されます。
 慶長19年(1614年)、毛利輝元は関ヶ原の功績によって豊前国に2万石を与えられ、竹田城の城主となりました。彼は城を再築し、様々な改修や整備を行い、城下町も発展させました。その後、寛永2年(1625年)に立花道雪が城主となり、以降は立花氏が城主として続きます。道雪は城郭の改修を行い、城下町の整備も進め、竹田城を豊かな文化の中心地としました。
 しかし、寛永14年(1637年)に発生した島原の乱では、立花宗茂(道雪)がキリシタン大名として反乱に加担したことから、幕府の命令で竹田城は廃城とされ、城郭の多くが破壊されました。その後も城址は荒廃し、明治時代に入ると廃城令により一部が更に解体されました。
 現在、竹田城はその一部が再建されています。本丸の天守は再建されず、石垣や土塁、一部の櫓や門が復元・再建されています。城址一帯は公園として整備され、城の歴史や関連資料を紹介する資料館も設置されています。また、城址からは筑後川の美しい風景が望め、四季折々の風情が楽しめるスポットとして観光客に愛されています。竹田城は、その歴史的な価値や風光明媚な自然環境から、地元住民や観光客に親しまれる歴史的名所となっています。
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