安土城

(概要)
 安土城は、織田信長によって天正4年(1576)から約3年の歳月をかけて築城された城で、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)に位置していました。当時としては画期的な天守を持ち、天下統一の拠点として機能しました。しかし、信長の死後わずか3年後の天正10年(1582)に本能寺の変で焼失し、現在では石垣のみが残っています。
 安土城築城以前、信長の居城は岐阜城でした。しかし、信長は天下統一に向けて勢力を拡大していく中で、より戦略的な拠点が必要だと考え、琵琶湖畔の安土山に新たな居城を築くことを決意しました。
 安土城は、当時としては最新の技術を用いて築城されました。石垣は自然の地形を活かして積み上げられ、天守は7層から成り、金箔瓦で葺かれていました。また、城内には南蛮風の建築物や庭園なども造られ、当時の最新文化を取り入れた城郭として、国内外に大きな衝撃を与えました。
 安土城は、信長の天下統一の拠点として重要な役割を果たしました。信長は安土城を居城として、各地の戦役を指揮し、外交交渉も行いました。また、安土城は当時としては珍しい天主閣を持ち、その威容は諸大名に大きな威圧感を与えました。
 しかし、天正10年(1582)6月2日、信長は本能寺の変で家臣の明智光秀に謀反を起こされ、自害しました。その3ヶ月後、安土城は原因不明の火災によって焼失しました。
 安土城は、以下の特徴を持つ画期的な城郭でした。日本初の天守閣を持つ城郭と考えられています。天守閣は、城の象徴としてだけでなく、軍事的な役割も果たしました。当時としては大規模な石垣を用いて築城されました。石垣は城郭の防御力を高め、威容を誇示する効果もありました。南蛮風の建築物や庭園などが造られました。これは、信長が海外文化に積極的な姿勢を示していたことを表しています。
 安土城は、その後の城郭建築に大きな影響を与えました。天守閣や石垣の利用は、江戸時代の城郭に広く普及しました。また、安土城の華麗な装飾は、桃山文化と呼ばれる新しい文化の発展にも影響を与えました。
 現在の安土城は、天守閣をはじめとする建物は焼失して石垣のみが残っています。しかし、石垣は当時の築城技術の高さを示しており、国の特別史跡に指定されています。
 安土城跡には、天守閣の礎石や信長の居館跡などが見学できる場所があります。また、安土城郭資料館では、安土城の歴史や文化に関する資料が展示されています。
 安土城は、日本の城郭史において重要な位置を占める城跡です。信長の天下統一の夢を体現した城郭として、多くの人々が訪れています。
Map


受付
入場料は700円です。大手道を登り切り、往きは信長公本廟、本丸跡、天主跡へ。帰りは摠見寺跡方面へ行き、西の湖の展望を見て、三重の塔、二王門を経て受付に戻る。出口に戦国武将漫像図が張られ、日本100名城が売られている。
大手道
大手道は大手門から山頂部の天主や本丸に至る主要な道です。180mの直線で道幅は約6~7mあり、両サイドは側溝と高さ3mの石垣によって囲まれている。
伝羽柴秀吉邸跡
伝羽柴秀吉邸跡は、大手道の左側に配された郭で、右側には伝前田利家邸跡、伝徳川家康邸がある。
黒金門跡
黒金門跡は安土城の主要な入口です。黒金門跡で左に折れ、その先を右に入ると石垣に突き当る。左の石段を上ると織田信雄四代供養塔で、右に進むと仏足石があり、その先は信長公本廟と本丸跡に通じる。
織田信雄四代供養塔
織田信雄四代供養塔は伝長谷川秀一邸跡にあり、信雄から信武まで4代の遺骸が埋葬されています。なお、織田信雄は安土城に火をかけたとも伝えられています。
仏足石
仏足石は、お釈迦様の足跡を表現したものです。この仏足石は二の丸跡付近から発掘された。大手道跡に見つかった石仏と同様に築城の際、石垣の一部として使われたものと思われる。
信長公本廟
信長公本廟は、天主跡西下の伝二の丸跡にある。羽柴秀吉が天正11年1月三法師に登城し、翌2月に二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺愛品を埋葬して本廟とした。
本丸跡
調査報告で、本丸は京都御所内の天皇の住居である清涼殿と酷似した構造になっており、高床式の建物で周囲にある伝三の丸跡や天主取付台と渡り廊下で繋がっていたことが明らかになっている。
天守台跡
天守台跡は、東西、南北それぞれ約28mの石垣に囲まれた台地で、礎石が1.2mおきに整然と並んでいる。天守は5層7階(地上6階・地下1階)で、この部分は地階にあたる。
三重塔
三重の塔は、摠見寺跡の一角にあり、三間三重で室町時代の享徳3年(1454)に建立された。
琵琶湖
摠見寺跡から内湖、西の湖が眺望出来る。
仁王門
二王門は、室町時代の建立で、信長公の命で甲賀から移築された。左右に安置される金剛力士像と伴に国の重要文化財です。